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朝鮮の沿岸航路

明治9年に釜山が開港したことで釜山を中心とした沿岸航路が必要となりました。
朝鮮には整備された道路が皆無で多量の荷を運ぶには当初は海運しかなかったからです。

大阪商船と日本郵船の外航船が開港した釜山を経由することで輸送を行ないました。
不開港の港へは朝鮮の帆船が海運を行なうしかありませんでした。

明治38年(1905)日本船が貿易の目的で沿岸、内河を航行すつことを
大韓帝国に認めてもらいました。

統監府は補助金を出して沿岸航路設立を働きかけました。

沿岸航路の便のため 明治41年釜山汽船會社ができました。
他に大小20数個の沿岸航路線ができたのです

明治45年に多くが合併し朝鮮郵船が設立され沿岸航路の統一と外航も行なうようになりました。

それでもまだ沿岸航路は多くの業者が乱立していました。

釜山を中心とした南鮮には下記の船会社がありました。

釜統汽船、大池回漕店、山利回漕店、須之内常太郎経営
統営海運、朝鮮郵船、小林回漕店、島根回漕店、伊藤回漕店
丸二等回漕店

それが合併に合意し大正14年に朝鮮汽船が設立されました。

写真は釜山にあった昭和初期の朝鮮汽船本社ビルです。

合併で朝鮮汽船が最大の会社になりましたが 釜山を中心に
朝鮮郵船、共同海運、巨濟海運など数社が沿岸を運行していました。

朝鮮の米は日本向けの最大の輸出商品だったのです。

全羅南道は米の主要生産地なので移出の拠点である木浦は
米の集積地として栄えました。

釜山から木浦まで下記の港を経由して40時間の船旅です。

釜山-熊川-鎮海-馬山-統営-三千浦-露梁津-麗水-
-羅老島-豊南-鹿洞-栗洞-水門浦-竹島-古今島-
-莞島-水営碧波津-木浦

この写真は朝鮮汽船木浦支店の姿です。


木浦港の光景です。

釜山と木浦の間の港を繋ぐ南岸航路は下記のように
多くの航路がありました。

「釜山-船津線」「釜山-馬山線」「馬山-統営線」
木浦-法聖浦線」「馬山-鎮海線」「木浦-濟州島線」など

朝鮮汽船の釜山木浦航路「かも丸」です。

他に「かもめ丸」「新光丸」「つばめ丸」「ちとり丸」が
就航していました。

朝鮮汽船の釜山麗水航路「大平丸」です。
他に「大安丸」がありました。

釜山を朝10時に出て、麗水に午後6時半到着する昼便と
釜山を夜8時に出て、麗水に朝5時到着する夜便がありました。

小島や入り江、奇岩が多い風光明媚な航路なので 昼夜便
ともに観光としても人気がありました。

東岸航路も重要な航路で大型で速度の速い船が
配置されていました。

この船は鬱陵島航路の「大東丸」です。

朝鮮総督府命令航路で月4回往復していました。

寄港地は釜山、浦項、丑山、寧海、平海、蔚珍、竹邊を
経て鬱陵島の道洞になります。

東岸航路のメインは釜山-元山航路です。

寄港地は 釜山を出てこの写真の浦項
江口、竹邊、臨院、三陟、黒湖、安木(江陵)
注文津、束草、長箭、元山になります。

写真の船は釜山元山航路の「金城丸」です。
他に「鏡城丸」「長安丸」があり高速の
ディゼル船を配置していました。

もうひとつの路線が釜山九龍浦線です。

釜山から方魚津、甘浦、良浦、九龍浦と毎日
運行していました。

船は「慶営丸」「慶信丸」「はくてう丸」の3隻

釜山を夜中に出て翌日午前11時に九龍浦につき、
九龍浦を午後2時に出て翌朝5時に釜山に戻るのです。

写真は三陟の港

全社データについては 朝鮮定期沿岸航路一覧をご覧下さい。


「伸びゆく朝汽」 朝鮮汽船15周年記念社史 昭和15年 を参考にしました。
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