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日清戦争の概略

呼称

当事者によって呼称が異なります。

日本国内では日清戦争、明治二十七、八年戦役と呼びます。
韓国=청일 전쟁(清日戦争)
中国=日清战争(甲午战争)
米国=Sino-Japanese War

日清戦争は、朝鮮の宗主権を維持しようとする清国と、朝鮮を独立させて緩衝地帯として
清国・ロシアの勢力が日本に及ばないようにしたいとする国策が衝突したものです。

清国は朝鮮に李鴻章の部下の「袁世凱」と軍隊を漢城(ソウル)に常駐させ、朝鮮の重要な
政策を逐次指導していたようです。

明治15年(1882)給与米の不払いを不満とした兵士によるクーデター(壬午軍乱)を起こして
政権を取った 大院君の地位を「袁世凱」は認めず、軍を出して鎮圧 大院君を拘束して
天津に送り幽閉、高宗の政権を復活させました。

明治17年(1884)改革派の金玉均が起こしたクーデター(甲申事変)も「袁世凱」はすぐ軍を
出して同じように鎮圧しました。

明治18年(1885)日朝間で京城条約が結ばれ邦人保護のための軍の駐留が認められました。
漢城(ソウル)在住の日本人に多数の死者( 壬午軍乱甲申事変) が出たからです。
日清間では同様な事変の時 派兵が必要な時は互いに通知するという天津条約を結びました。

明治27年(1894)全羅北道で東学党の乱が起こり、制圧できない朝鮮政府は清国に派兵を求め
ました。日本も居留民保護という名目で朝鮮に派兵しました。

日本は動乱の再発を防止する為の朝鮮政府の内部改革を唱え、清国は朝鮮の宗主国として
他国の干渉は受けないとして無条件の日本軍撤兵を主張しました。

撤兵条件をめぐって日本と清国が対立し戦争で決着をつけることになりました。

 

明治27年(1894)

7月12日:大鳥公使は朝鮮政府に清国軍の撤兵をするように最後通牒を行う
7月23日:大院君を立てたクーデターを起こし朝鮮を日本側に付ける
7月25日:豊島沖海戦、
7月29日:成歓の戦闘 
7月30日:牙山の戦闘
8月1日:両国宣戦布告
9月15日:平壌の戦闘
10月24日:鴨緑江の戦闘
10月30日:安東占領
11月18日:土城子付近で遭遇戦
11月21日:旅順陥落
12月13日:海城占領
明治28年(1895)
1月30日:威海衛の戦闘
2月13日:清國北洋水師提督丁汝昌自決
3月5日:牛荘城占領
3月20日:下関で講和会議
3月24日:全権の李鴻章が狙撃される
3月26日:台湾・澎湖島を占領
3月30日:日清休戦条約調印
4月17日:下関条約調印
下関条約で朝鮮は清国からの独立が認められました。 (独立門
遼東半島(関東州)を清国から日本に割譲することが 決まると、ロシア・ドイツ・フランスの3国は
承認できないとして日本に返還を要求しました。(三国干渉)

明治29年(1896) 日本がロシアより弱いと見た韓国の高宗は、韓国王室をロシア領事館内に移転
ロシア領事館の中から親ロ政策を連発しました。(我館播遷)

ロシアは旅順・大連を清国から租借、シベリアから満州を横断して旅順までの東清鉄道を建設しました。

ロシア極東総督を置いて日本を含めて極東は外務大臣の所管ではなく植民地担当の ロシア極東総督
管理下に移管する決定をしました。それで日露戦争に向かいます 

Data

当時の政府は伊藤博文 第2次内閣=明治25年8月(1892)- 明治29年9月(1896)


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