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興宣大院君

名は李是応 字は時伯、号は石坡(1820〜1898)

大院君とは 直系ではない国王の父の尊称です。

李朝で数名 大院君と呼ばれる人がいます。
通常 大院君といえば有名な興宣大院君を示します。

李朝末期 后の親戚が公職を占める勢道政治で国王は
飾り物に過ぎなくなっていました。

国王に実権を取り戻すため子を国王にして 自分は摂政で
政治の実権を握り数々の内政改革を行いました。

大院君の治世は善政が多かったと言われてますが慶福宮建設の
ための重税と,キリスト教徒弾圧,徹底した鎖国の強行などで
疑問とする説もあります。

大院君は勢道政治に無縁と思われた閔氏から息子のために
后を選らびました。
国王が成人になると摂政としての実権を失います。
その時 政治力を発揮したのが后の閔妃と彼女の親族です。

大院君を権力から追放し閔妃の親族が公職を占め勢道政治が
復活することになりました。

大院君は国内の動乱を利用して何度も権力奪回を図りましたが
いずれも短期に終わり果たせず亡くなりました。

最初は この錦絵にある壬午の軍乱(明治15年=1882年)です。
右上の怖い顔の人が大院君(62歳)です。
日本公使館も襲撃され仁川まで戦闘しながら逃げた様子がこの錦絵です。

給与米の支給が少なく遅れたことが原因で軍の反乱が起こりました。

新に編成された日本の指導による新式部隊の特別待遇に対する不満と 改革を指導する日本への反発もあり、軍事顧問の堀本禮造が殺されました。
反乱した兵士達は旧体制の指導者である大院君を担ぎ、大院君は期せずしてクーデターに成功しました。

閔妃は田舎に逃げ 閔一族の権力者の大半は処刑されました。

約1月後 閔氏の要請した清国軍によって大院君は捕らえられ清国に拉致され、 閔妃と彼女の親族の権力が戻りました。

日本と清国が朝鮮での勢力争いをしてるを牽制することで政治の主導権を握ろうとする閔妃は
朝鮮に権益を求めるロシアに近づきロシアの力を利用したい考えたようです。

明治18年(1885)ロシアの勢力拡大を抑えたいとする清国はロシアを牽制させるため大院君を
朝鮮に帰国させることにしました。

日本は日清戦争に備えるため朝鮮に親日政権が欲しくなり、軍事力でクーデタをバックアップして大院君を政権に戻しました。

この錦絵は明治27年(1894) 白馬に乗った大院君(74歳)を入城させるため、京城を攻撃する 朝鮮駐剳全権公使の大鳥圭介が指揮する日本軍を描いています。

この時の「金弘集」を総理大臣とする親日政治改革を「甲午更張」と呼びます。

大院君は基本的考えは保守なので近代化の政策推進には消極的です。近代化は進まず、
朝鮮公使の大鳥圭介は 責任を問われ、朝鮮から去ることになりました。
後任の朝鮮公使の井上馨は大院君から国王支持に切り替えしたので 4月後には大院君政権は崩壊、
3度目の政権の座を失いました。

最後は翌年の明治28年(1895)に朝鮮公使として赴任した三浦悟楼と共に  クーデターを起こし
王妃の閔妃暗殺しました。75歳でした。 これが「乙未事変」です。

3年後の1898年 没


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