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大邱の近代化 朴重陽 (1874∼1955) 日本名:山本信

朴重陽 現在の韓国で極悪人とされて、 子孫の財産も
没収する法案が作られた人物をご紹介します。

参照: 中央日報 日本語記事

明治7年(1874)京畿道楊州で生まれ、21歳のとき
東京に来て政治・経済を学び、日露戦争の始まった
ころ韓国に戻り大邱で閑居していました。

明治39年3月 伊藤博文が統監として赴任の途中
大邱で彼に出会い、優秀な人物だとして義親王附
警務官に推挙しました。

略歴
明治39年(1906) 大邱郡守に転任し監察使署理を兼任
明治40年(1907) 平安南道監察使
明治41年(1908) 慶尚北道監察使
明治43年(1910) 忠清南道知事
大正3年(1915)中枢院参議
大正10年(1921) 黄海道知事
大正12年(1923) 忠清北道知事
中略
昭和16年(1941) 中枢院顧問
昭和18年(1943)中枢院副議長
昭和24年(1949) 逮捕拘束
昭和30年(1955) 死亡

朝鮮時代の大邱 城壁で厳重に囲われていた古い大邱
不便なので城壁を取り壊す事が話題になり、
釜山の富豪「大池忠助」は韓国政府に
城壁撤去の申請し許可をもらいました。

彼の提案は7間幅の城壁撤去費用と5間幅の
道路整備費用をすべて負担し、代わりに残り
2間幅の土地の99年間無償貸与です。
店舗や土地の賃借で利益を得る計算でした。

大邱の住民たちは釜山の富豪に大邱の中心を
牛耳られることに反対し公費での城壁 撤去と
道路建設を訴えました。

朴重陽は大邱の近代化のために広い道路は
必須であるとして、公費での取り壊しを決め
大池忠助の 申請を無視し、取り壊し作業を
始めました。
韓国政府は怒り朴重陽を免じ刑にする勅令が
きたけど伊藤博文がとりなしたそうです。

袋路地と狭く曲がりくねった通路の連続だった城内を直線道路で結ぶ計画もでき
大邱居留民団は、大邱の中央の十字道路(現在の中央路、国債報償路)の建設に
かかりました。
朴重陽は道路建設で一番重要な城内の韓人の立退き説得に奔走したのです。
それで大邱民団史で朴重陽は大邱の発展の恩人であると記されています。

城壁跡の7間の環状道路と12間幅の東西南北の十字道路ができたことで京釜鐵道と
市内 連絡が便利になり大邱は近代化への道を進みます。

達城公園も桑畑として分散払い下げを前任の監察使がおこなっていましたが それを破棄し、
達城の丘全体の公園化を推進しました。

近代化を推進=日本への協力者として、戦後独立した韓国では反日政策で国をまとめる
必要があったので逮捕され、最近になって子孫の財産も没収をされる事になったようです。


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