Home > 人物 > さ征韓論と西郷隆盛(1827-1877)
文政10年に鹿児島で生まれ、明治10年 鹿児島で自刃。
徳川幕府は朝鮮と正式な国交があり、将軍が代わる度に朝鮮通信使が江戸まで
来て 挨拶をしていました。朝鮮通信使の接待やその他の交渉窓口を対馬藩が行なっていました。
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明治新政府が出来た時、廃藩置県によって
これまでの外交担当の対馬藩から外務省が
直接に政府間交渉を行なう事になりました。朝鮮は当時、鎖国をしていて、清国と日本
のみが 例外になっていたのです。明治政府と徳川幕府は政権は異なるのですが
日本には間違いないので今までと同じような
お付き合いをと明治政府は考えました。天皇を中心とした新政府になった事を対馬の
宗義達を通じて挨拶文を朝鮮に送ちました。今までの外交文書と形式が完全に異なる為
朝鮮は受取りを拒否しました。朝鮮では天皇の「皇」という文字は清国の皇帝
だけが使える文字だと思っていたからです。
釜山の日本人居留民に対して嫌がらせを 始めたので国内で征韓論が興りました。陸軍大将だった西郷は武力行使派を押さえて、 朝鮮との交渉に当たる全権大使として派遣の
閣議決定しました。ところが欧米視察から帰ってきたばかりの岩倉具視、大久保利通の反対で否決されました。
万一 事を起こすと清国や諸外国につけこまれ 日本が不利になる考えたからです。明治6年 失意の西郷は参議など公職を辞して鹿児島に隠遁することになりました。
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明治10年 徴兵制で身分を奪われたことに
不満の武士たちは西郷を立てて反政府運動を
起しました。
これが西南戦争です。
近代的な武装の徴兵兵士は剣を使う薩摩武士を
鎮圧 することができました。錦江湾と桜島が見える丘の上に 西南戦争で
死んだ薩摩武士たちの墓が並んでいます。
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敗れた西郷は自刃しました。
明治維新の功績が大きかったことや個人的な
魅力で反政府軍の大将でしたが 国民に親しま
れています。今でも参拝者が絶えることはありません。
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墓地の側には西郷を顕彰する博物館まであります。
彼が繰り返し書いたと言われる
「敬天愛人」が テーマです。関係は分かりませんが 面白いことに、
反日で有名な大統領の李承晩も「敬天愛人」の額を 書斎に常時架けてあったようです。
西郷隆盛が書を書くとき自分の言葉は「南州」と署名し、
他の人の言葉を書くときは「南州書」と書いていました。「敬天愛人」の書には「南州書」と書いてあるので西郷が
自分で考えた言葉ではない事を示しています。何処からの引用なのか?諸説あって確かな事は分かりません。
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