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近藤眞鋤
(こんどう ますき:1839-1892)天保10年(1839)愛媛県で生まれました。姓は藤原 号は「内軒」
明治3年(1870)外務権大録(がいむごんのだいろく)となり英国勤務
明治5年 外務一等書記官となりました。釜山が最初に開港した時、 釜山の日本人居留民保護の
ために領事館の前身である外務省の監督官廳が設置
されることになりました。
明治10年 近藤眞鋤は外務権少書記官に任じられ
管理官として 釜山管理庁に赴任しました。明治11年1/21 花房義質公使と同行して帰朝
管理官代理は福田節(外務二等属)明治12年12年 釜山領事補になり、翌年 釜山管理庁は
釜山領事館となり近藤眞鋤は釜山港在留領事兼判事と
なりました。明治15年2月19日 帰朝。臨時領事代理として宮本羆
左写真は当時の釜山領事館。
明治15年4月 近藤眞鋤は釜山の領事から仁川港勤務を任じられ、 京城在勤書記官兼判事補
兼仁川領事六等官相当の身分で京城公使館に花房公使と勤務することになりました。京城の日本公使館の公使 花房義質は朝鮮王の高宗に近代化の 構想をいろいろ提案していました。
中でも軍隊を洋風に制度を改める事で日本帝国陸軍将校3人の 軍事顧問を派遣していました。同年7月 兵士の給与米の支払いされないことで壬午軍乱と呼ばれる 兵士の暴動が起こりました。
さらに洋式軍制度に危機感をもった朝鮮軍隊は軍事顧問であった 堀本禮造中尉や数名の日本人を殺害し
その提案をした 日本公使館も襲いました。近藤眞鋤外務書記官は花房義質公使ら公使館勤務の数十名といっしょに暴徒と戦いながら 仁川まで逃げ 英国測量船に救助され日本に戻りました。
翌月の8月花房公使に同行した近藤眞鋤書記官は朝鮮政府交渉で結んだのが。 済物浦(さいもっぽ)条約です。
長崎で撮影された花房公使一行遭難記念撮影から
近藤眞鋤を拡大10月 近藤眞鋤は外務書記官兼領事五等官相当に
任じられ 臨時代理公使となりました。明治17年 金玉均のクーデター失敗(甲申事変)の
対処を交渉するため外務権大書記官となり、
近藤眞鋤は井上馨全権大使と同行して朝鮮派遣を
命ぜられました。
そのとき結ばれたのが漢城条約です。
(明治18年1月締結)明治18年 外務権大書記官兼外務書記官に任せらました。
明治21年 朝鮮国駐箚代理公使となった近藤真鋤は
軍艦「扶桑」「武蔵」の両艦を牽いて仁川に航到
した伊東海軍少将が朝鮮国王への挨拶のとき同行し
共に拝謁しました。明治24年 病気を理由に帰国
明治25年 53歳 東京にて没。
日本外交史辞典(外務省外交資料館)では天保11年(1840)生まれとなっています。
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