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加藤宇太郎

(かとう うたろう:1867-1941) 加藤宇太郎

慶応4年(1868)2月15日 香川高松市塩屋町で
七條藤平、ハルの次男として生まれました。

実家は「加賀藤」の屋号で乾物、海産物商を
営んでいました。

明治?年 加藤家に養子に行く。

日露戦争のロシアの拠点である旅順港が陥落し、
次にの奉天作戦のため軍需物資やその他の補給
増強が必要とされるのを商機ととらえ満州の遼東
半島に渡りました。

明治38年3月、満州の遼東半島の付根付近にある
営口に貿易会社「加賀藤洋行」を設立しました。
加賀藤洋行

日露戦争のとき兵力増強のため四国善通寺で
新に設立された第十一師団と茨城の宇都宮で
新設された第十四師団は旅順攻略後の遼東
半島 警備を担当していました。

営口に拠点のある「加賀藤洋行」が両師団の
酒保や工兵隊の資材供給を一手に請負する
御用 商人になり財を作りました。

写真は営口の「加賀藤洋行」の建物の前で記念
撮影をする加藤宇太郎と妻ツタ、社員
(赤ん坊は長男の加藤俊次)
加賀藤洋行

後ろの玄関右側にかかっているアサヒビールの
看板を拡大します。

旭ビールは大阪麦酒株式会社が明治25年から
製造開始し、各地で人気がありました。
明治40年に大阪麦酒、日本麦酒、札幌麦酒の
3社が合併して大日本麦酒株式会社となり旭
ビールは消滅しました。
広告からも明治後期の貴重な写真だと分かります。

戦後の1949年に分離して再度アサヒビールは
市場に 復活しています。

明治40年(1907)第十四師団は姫路の第十師団と
交代し内地に帰投することになり、「加賀藤洋行」も
明治43年(1910)営口の店を閉じて、内地に戻り
ました。
加加藤宇太郎

加藤宇太郎は日韓合邦後の明治44年3月に渡鮮を
決意、実家に長男を預け、外地の釜山府南濱町
一丁目で海産物の店「加賀藤」を夫婦だけで
開業したようです。

以後20余年間の営業努力があって大きな店になり
海産物問屋の老舗で釜山の釜山海産物商組合
重鎮 でした。

加藤宇太郎は終戦の2年前の昭和十七年亡くなり
西町の東本願寺で葬儀が営まれました。(75歳)

昭和7年の記念撮影(65歳)

海産物問屋の「加賀藤」息子の加藤俊次が継いで
盛業でしたが、敗戦で米国から日本人は総帰国を
命じられ、全ての財産を残し手荷物だけで帰るしか
有りませんでした。

山口県の小さな部屋を家族で間借りして食べるの
にも苦労されたようです。

写真は現在の南浦洞の様子(2006/03撮影)


釜山名士録(昭和10年)の住所は誤記 ×塩谷町--> ○塩屋町
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