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香椎源太郎

(かしい げんたろう:1867-1946) 香椎源太郎

慶応3年(1867)福岡県御笠村鬼木に次男として生れ、
中学卒業後、朱子学の大家である杉山観園の門に入り
漢学を学びました。

少年時から勝海舟先生にあこがれ、その門下生に
なるため家を飛び出して上京し、書生の一人として
7年ほど学んだようです。

その後 大阪で商売を始め、人力車で乗り廻わす
レベルまで あがったようですが失敗
明治38年ごろ朝鮮に渡り、釜山の水産業界では
知られる成功者となっていました。

22才の時 香椎家に養子となりました。

香椎家は2.26事件の戒厳令司令官だった。
香椎浩平中将の家です。

本籍
福岡縣筑紫郡御笠村大字天山二百三十番地

写真:大正12年
香椎源太郎

総務長官の目賀田男爵から一介の漁業者だが釜山に
こういう男がいる。と紹介された統監府の伊藤博文
香椎源太郎を京城の統監府に呼び面談しました。

彼が朝鮮で儲けて、日本に財産を持ち帰ろうという
はなく朝鮮で腰を落ちるける人物だと見抜いた伊藤博文は
朝鮮王室漁場の漁業権を彼に委託することにしました。

独自の工夫を凝らした新型網の開発で漁獲量が増えて
水産事業は発展し、資産ができました。

釜山商業会議所 会頭に推され別に大正4年に 朝鮮瓦斯電気
会社
の社長に 就任、事業を発展拡大しました。
大池忠助迫間房太郎 につぐ 釜山の3大資産家と呼ばれる
実業家になりました。

大正12年(1923)に釜山で開催された朝鮮総督府主催の
朝鮮水産共進会の協賛会長を勤めました。

大正13年 正六位を授る

大正14年(1925) 斎藤総督から事業が継続できなくなった
日本硬質陶器を引受けるように要請が
あり、海外での陶器販売に力をいれ、数年後に再建に成功しました。

昭和3年11月 勲五等瑞宝章を授ける

昭和4年 釜山の路面電車釜山府の営業に移管したいとする釜山府尹との戦いに勝利しました。

釜山海産物商組合顧問
香椎源太郎

朝鮮総督府の電気事業統制推進政策で各地の
電力会社の合併が勧められました。

朝鮮南部地域でも大手6社の合併することとなり
香椎源太郎が精力を注いで築いた朝鮮瓦斯電気は
大邱の 大興電気に吸収され、昭和12年に南鮮合同
電気株式会社
が出来ました。

最後の社史で新しい会社の成立を祝福していますが
行間に悔しさが読みとれます。表紙を飾った写真も
無念さを抑えた気持を読み取る事ができます。

そしてとどめは敗戦です。
昭和20年9月 米国との戦争に負けた日本は朝鮮
から内地に引上げを米軍から命令されました。
すべての資産を釜山に残して帰国することになり
ました。

伊藤博文が彼に望んだように朝鮮・釜山の発展の
ためにすべてを再投資していた香椎源太郎は
すべてを失っていました。

写真:社史:朝鮮瓦斯電気株式会社発達史


内地にあった朝鮮硬質陶器金沢支社だけは存続できるように、 朝鮮硬質陶器の本社機能を
釜山から金沢に移転するなど各種事業の敗戦後処理に追われる事になりました。

自分の会社だけではなく釜山日本人世話人会初代会長として、満州・朝鮮全域から無一文に
なって帰国する 日本人のために動いたようです。

昭和20年12月 過労で倒れる、静養のため、郷里福岡に帰り、その後大分県速見郡由布院で
病気療養に専念するが、昭和21年3月23日 逝去。享年78才

日本硬質陶器は婿の大野道雄が継いだ。

夫人:照子 昭和11年(1936)死去  子:香椎宗太郎?

香椎源太郎の本邸は現在も釜山広域市中区大廳洞に現存しています(2009/07現在)


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