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壬午軍乱と堀本禮造

東北の山形県出身の堀本禮造は明治10年少尉試補を拝命、明治11年少尉に任官し
参謀本部に出仕し正8位になりました。

朝鮮時代の軍の組織は昔の中国の軍組織を学んだもので 多くの部門がありました。

その組織は近代戦では効果が薄いことが 江華島要塞が雲揚号の陸戦隊
簡単に敗れたことで分かりました。

それで朝鮮政府は 洋式軍隊の整備を考え始めました。

明治13年(1880)に弁理公使花房義質の提案を受け、日本から軍事顧問として
陸軍工兵少尉 堀本禮造,陸軍工兵少尉 美代清濯, 陸軍歩兵中尉 菊地節蔵の3人を
招き明治14年(1881)5月いて教錬兵隊(別技軍)を下都監に設置しました。
(所属は統理機務衙門軍務司)

そこで韓国伝習生500人の教官として士官生徒及び兵勇の訓練、兵制の改革の
任務に勤めていました。

閔氏一族の私物化した政治で、足らない予算の中で高価な洋式装備をした 軍隊を別に作ったこともあり、兵士の給与米の支払いが遅れるようになました。

それが原因で明治15年7月(1882)壬午軍乱と呼ばれる 兵士の暴動が起こりました。

洋式軍隊がメインになると存在理由がなくなることに危機感をもった 朝鮮軍隊は 軍事顧問であった堀本禮造中尉や数名の日本人を襲い、殺害したのです。

さらに平素の不満から暴動の矛先は政権を握る閔氏一族の重臣や 日本公使館へも向かいました。

暴徒に追われた花房義質公使ら一行は仁川に逃れ
イギリスの測量船で長崎へ避難したのです。

高宗は事態の収拾を隠遁していた保守鎖国派の大院君に求めたので、
堀本禮造が教えた洋式軍(別技軍)は解散され、元の旧式の軍組織に戻ったのです。

堀本禮造と陸軍省語学生徒の池田平之進、岡内格の2名が戦死として明治15年靖国神社に合祀されました。

美代清濯は明治24年に大尉になっているので戦死ではないことは確かです。

菊地節蔵は記録がないので分かりませんが戦死者名簿になく、奮戦を描いた朝鮮錦絵に
登場していないので無事だったのでしょう。


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