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迫間保太郎

文久3年(1863)6月18日 和歌山県(紀州)那賀郡池田村の
迫間喜四郎の5男として生れる。兄は迫間房太郎

明治17年(1884) 釜山に渡り商業を営む
江原道で魚の買い付け中に暴風に あって出雲に漂着したり、
明治33年の米穀価格変動で財を失ったりしたが
奮起して再度成功する

明治37年9月6日 日露戦争遼陽占領記念行列

釜山の居留地時代の店員の制服である厚司姿の 様子がわかります。
襟に釜山と商標の山ハ、迫間の文字が見えます。

迫間保太郎 明治40年

兄の迫間房太郎は迫間本店で屋号・ 商標も
異なります。 混同しやすいので注意

迫間保太郎は商売の傍ら、各地の物産の
見聞を深めるため内地、朝鮮の各道を歩いて
情報を集めていました。

江原道で鰯漁が盛んなのを知ると、朝鮮の
鰯を市場に流す経路造りを模索しました。

朝鮮米の流通で明治33年の価格下落で大損
したのは米の価格が安定しないためなので
公定相場をつくるため、明治39年10月釜
山理事庁の認可を得て11月に釜山米穀市場
設立に立ち上がりました。

迫間保太郎は評議員として名前を連ねています。
明治40年  日本赤十字総会に出席

穀物市場の評議員から保太郎が引退した
後は迫間商店の番頭として長年年勤めた、
亀田捨治が大正四年に独立して、米穀店を
開き、穀物市場の評議員に選出されました。

迫間保太郎 大正5年の姿

本業以外に下記の会社の大株主
朝鮮紡績 、釜山水産梶A釜山共同倉庫

迫間保太郎 昭和10年(1935)の誕生日
72歳


迫間保太郎 昭和14年(1939年)2月5日(76歳)
迫間善江  昭和14年(1939年)12月30日(63歳)妻

敗戦前に亡くなって釜山の峨媚洞共同墓地
埋葬されました。
後に、子孫が日本に遺骨を持ち帰ることが
できたようです。

釜山時代は財産家でしたが財産を残して
日本に帰国するしかなく子孫は苦労した
ようです。



迫間保太郎の店 迫間商店だった建物はまだ釜山に残っています。
写真の場所:釜山広域市中区東光洞1街6-1
迫間商店


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