(はせがわ よしみち)
嘉永3年8月26日〜大正13年1月27日 (1850〜1924)
明治26年 日清戦争の旅順攻撃(歩兵12師団長)
明治28年 男爵
明治29年6月 陸軍中将
明治31年 近衛師団長
明治37年 日露戦争で鴨緑江会戦、遼東会戦に参加
明治37年6月 陸軍大将
同年9月 朝鮮駐剳軍司令官に就任
明治39年 子爵
明治45年 伯爵
大正5年10月 寺内正毅の後任として2代目の朝鮮総督に就任
大正8年8月 朝鮮総督を離任し斉藤實と交代
大正13年1/28 没
朝鮮総督在任中の朝鮮で3.1独立運動(万歳事件)がおこりました。
問題が出たことは統治の責任だとして辞職することになりました。
日露戦争後の5年間朝鮮駐剳軍司令官として
在任していたので、
朝鮮の実情に詳しく、
政治も解する人であると評判が高く朝鮮
総督に推されたようです。
前任の寺内総督の作った組織を若干の修正で大半をそのまま
使い、
武断政策と呼ばれた寺内総督のやり方も継続したようです。
画像:日露戦争寫真画報(第9巻)より
朝鮮総督として主な功績
土地調査事業と土地制度確立
水利事業の推進と朝鮮殖産銀行の設立
任期は3年と短期間でしたが 経済は第一次世界大戦の特需も
あって大発展
しました。
朝鮮の生産物は大正五年は3億円だったのが大正八年には
17億6千万円に急増しました。
輸出入は大正5年が1億8千万円でしたが大正8年には5億8百
万円になっています。
教育も大正5年には400校だったのが大正
8年には510校に
なっています。
長谷川総督のとった大きな政策として
鉄道を総督府鉄道局から
南満州鉄道に統合
したことです。
これで満州・朝鮮間の物流体制が大きくなる要素が生まれました。