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渡津橋
影島大橋
釜山の市街地と影島を結ぶ影島大橋は交通の要所で
日夜 通過する自動車で混雑しています。跳開式橋梁で「渡津橋」の名で昭和6年(1931)10月起工し、
昭和9年(1934)11月開通しました。釜山府庁前から終点の牧島までの路面電車の 牧島線も
運行を始め 牧島(影島)も釜山府の市街地の一部になり
発展する事になりました。
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絵はがきのように一日に2度、橋梁の一部分が
上に開き、大型船舶の往来ができました。昭和時代の開く橋の様子はや絵葉書で広く
紹介され、釜山の名所として親しまれています。
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朝鮮戦争で多くの避難民が釜山に集まりました。
難民達は橋の開閉時間に付近の道路で親族や
離散家族の安否情報を交換したしたようです。情報が得られない時は占いに頼るしかありません
橋の周りに占いの店が集まりました。
自動車の交通量が増えたので 1966年9月に開閉部分が固定されました。
開閉設備も撤去されて 開くことはできません。
開閉した事を示す大きな歯車が当時の面影として残っています。![]()
開閉していた橋の部分はやはり補強が必要
だったのでしょう。
鉄骨で厳重に組んでありました。古くなったので取り壊して新造する計画もあり
ましたが 釜山市の文化財として保存が決定
されたようです。
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増える交通量に対応するため 隣に赤い
釜山大橋(1980年1月)もできました。それまで開閉橋の名前が渡津橋(釜山大橋)
でしたが 新しい橋に名前を譲り、それ以後
影島大橋になりました。
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橋のシャガルチ側の入口に1928年に埋め立をした
石碑が立っています。昔の地図を見ると分かりますが かなり離れて
いたので 絶影島と呼ばれ 放牧場として使わ
れていました。その後、何度も 埋め立て工事は続き釜山は
大きくなっていきました。草梁は海岸でしたし、凡一洞付近まで
明治のころまでは海でした。現在の島が1つの区で影島区となり高層ビルが
並ぶ都会になっています。計画中で停まっていたロッテワールドの建設
工事が始まりました。それに伴って橋の開閉を目玉にしたいとする
案が浮上し再建工事が橋の側で始まりました。再び橋が開く光景を近いうち見ることができ
るかもしれません。
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