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何故地番の変更が行われたか?

石井カルビ 釜山広域市中区大廳路134 視点方向は南 (2007/03撮影)
東光洞3-1 P7040584
道路(大廳路)を挟んで「石井カルビ」という看板の上がった
食堂を見ることができる。

この建物の現在の住所は2007年に決定された道路の左右に偶数、
奇数の番地を振る方式で表示すると釜山広域市中区大廳路134で
ある。

以前は日本と同じように町(洞)で区切りその中に地番を
振っていた。

釜山広域市中区東光洞3街1番地(1995)
釜山直轄市中区東光洞3街1番地(1963)
釜山市東光洞3街1番地(1949)
釜山府東光洞3街1番地(1947)
釜山府本町3丁目1番地(大正3年)

大正3年に地番が決定された「3-1」が市制の組織が変動しても
最近まで継続されたことが分かる。

東光洞3-1
日本統治時代の住所が分かる閉鎖登記簿の表題部である。

1番で明治42年9月10日に住所が本町三丁目15番地になったこと
登記の表題部から始まっている。
2番で大正三年11月6日に住所表示変更により本町三丁目1番地に
なったことが記されている。

明治42年9月10日以前の住所は釜山港北濱町二丁目10番地であった。
北濱町が本町に編入されたことで住所が変わったのである。
明治42年の住所改定

町合併で地番が変わるのは理解の範囲内であるが大正三年の
地番改定は驚きである。

いままで南から北に向かって地番の1から昇順であったので
この場所は15番地で4丁目との境界であった。
反対になり北のこの場所を基点に1番地として南向きに地番を
振っている。


登記簿に記された地番を改定するのは莫大な事務量になることが予想でき、住所が変わると連動して、住民票、戸籍なども改定が必要になる。 民間でも住所が記された広告物や帳票・印鑑などすべてに影響が出る。

大正三年の釜山の地番改定に影響があったと考えられる出来事は下記の2である。

1.釜山居留民団の解散
釜山市役所の機能を持った釜山居留民団が朝鮮総督府の命令で解散され、釜山府に組織が移管された。

2.釜山府の拡大
 今までは現在の中区だけが釜山府の管内であったが、現在の東区(草梁町、水晶町、佐川町、凡一町)と
 西区(土城町、富民町、中島町、草場町、大新町、富民浦(南富民))に広がった。

 朝鮮総督府の下部機関である、釜山府の権力が自治組織である釜山居留民団より勝ると住民に知らしめ
 莫大な事務経費も国家予算で処理できる事をアピールすためかも知れないと考えた。

 新たな地域が釜山府管内になり拡大しても、今までの番地を振り改める必要は無いと思われるので、これが理由である
 可能性は小さいと思われる。

京城に置いては朝鮮総督府が最初に在った龍山付近から1丁目始まり、遠くなるにつれて2丁目3丁目と振られていたが、景福宮の敷地内に
総督府が移転すると総督府に近いほうから一丁目、2丁目と振りなおしている。

地番改定に合理的な理由ではなく、権力誇示のひとつとして行ったと推測している。
このような権力志向による地番改定によって釜山のどこに誰が住んでいて、どのような店や会社があったというような特定作業をしている
私にとって面倒な事務作業の連続であることを吐露し、自己を労わっているのである(T_T)




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