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父の記憶 
6/28(火) 14:21:26 No.20110903193346 返信 削除
初めまして。
来月、釜山-鎮海へ旅行する準備の中で、このHPに辿りつきました。
今回の旅行の目的は、父を鎮海に連れて行くことです。戦前、戦中と、祖父母が経営していた商店の跡地を探す旅なのですが、手掛かりは父の幼少時の記憶だけという、なんとも頼りないものでした。
しかし、ここの貴重な写真や情報のおかげで、父の記憶が徐々に蘇り、およその場所を推定することもできたようです。
また、ハングルがまったく読めない私としましては、当地での交通や観光などの情報も、たいへんありがたいものでした。
まずはお礼まで。

1.  けい     6/29(水) 11:53:50 No.20110903193346-1 削除
こんにちは 書込み有難うございます。

このホームページが少しはお役に立ったようで嬉しいです。
鎮海の旧市街地には昔の建物が沢山残っています。
家族での楽しい韓国旅行になることお祈りしています。


2.       8/10(水) 10:38:47 No.20110903193346-2 削除
けい様
先日、釜山経由で鎮海へ行ってまいりました。
中園ロータリーのすぐ近く(光化洞)に、かつての商店の跡地を発見することができました。近くの古い日本風家屋街には、わずかながら当時の記憶もあるようで、父もたいへん喜んでおりました。
釜山・鎮海間のバス移動が、もっとも困惑しましたが、資料のおかげで、何とかなりました。
あらためて、お礼を申し上げます。


3.  けい     8/15(月) 13:37:48 No.20110903193346-3 削除
鎮海は比較的当時の様子が残っているので昔の商店の
痕跡を見つける事が出来てよかったですね!

鎮海の神木として中ロータリーにあった大榎は日本人が
引揚げると次第に弱まり枯れてしまったようです。
歴史を調べているといろいろ感じることが多いです。


4.  京都の平八郎     9/1(木) 21:18:12 No.20110903193346-4 削除
93,385バイト

絵葉書ですが大榎です
写真なら前回upのどの辺、程度で拡大できますよ
(昭和六年ぐらいですが)


5.  けい     9/3(土) 19:33:46 No.20110903193346-5 削除
写真ありがとうございます。
拡大画像をメールいただけると嬉しいです。

池田佐忠のご家族の方を探しております。 
チェヨンシル 8/30(火) 11:23:19 No.20110831194056 返信 削除
けいさん
私は韓国の蔚山(ウルサン)放送の
チェヨンシルと申します。

特集番組の制作の件で
池田佐忠のご家族の方を探しております。

申し連絡できる方法があれば助かります。
池田佐忠事業と人生とウルサンについてお聞きたいです。

1.  けい     8/30(火) 18:29:30 No.20110831194056-1 削除
昭和の初めまで海だった現在の南浦洞3街から忠武洞までの
市街地は池田佐忠が埋立して作った土地なので釜山の恩人と
されていましたが・・韓国の時代になってからは無名ですね

ご子孫の「池田國司」が自費出版で「池田佐忠事業と人生」と
いう本を発行しています。これを読むと引揚げてからの事業と
彼が社会事業に貢献した事がよく分かります。


2.  けい     8/31(水) 19:40:56 No.20110831194056-2 削除
池田國司の住所・電話番号をメールいたしました。
連絡がとれたら良いですね。

電話は苦手なので ご質問があればメールでお願い
いたします。

釜山第一商業の校長名 
天本孝久 8/25(木) 15:25:56 No.20110831110249 返信 削除
けいさん、ご無沙汰しております。私の知人から昭和18年職員録の校長名が違っている旨、指摘を受けました。とても懐かしがっておられました。
安麟太郎(誤) → 兼安麟太郎(正)
知人は、九徳会(同窓会)の会長で、昭和20年8月に4年生で繰上げ卒業(40期)となった方です。
昭和20年には、3月に4年修了で正式卒業(39期)、8月に4年在学中で繰上げ卒業(40期)、5月に3年在学中で卒業(41期)と三学年が卒業している由。(平成元年10月1日発行の九徳会会員名簿より)

1.  けい     8/27(土) 19:34:54 No.20110831110249-1 削除
ご指摘有難うございます。
慶尚南道職員録に下記のように記されていたので読み間違えました。
「学校長三等三級兼教諭正五勲五兼安麟太郎」
訂正しておきます。


2.  チェヨンシル     8/31(水) 11:02:49 No.20110831110249-2 削除
お返事ありがとうございます。
もし池田國司さんと連絡できたら本当に助かりますが
最近の情報とかご存じないでしょうか。

またよかったらけいさんとお電話することは
できないでしょうか。

お忙しいところ申し訳ありません。

釜山の想い出 
芙蓉亭 7/26(火) 20:01:57 No.20110804163424 返信 削除
アンニョンハシ〜ンギョ(方言)、けいさん

>道庁の近くの芙蓉洞にお住まいだったのでしょうか

そうなんです。道を挟んだ隣が西大新洞。近くに名門釜山女子高校があったんですが、沙上?に移転し、その跡地は高級住宅(当時の)に埋め尽くされてしまいました。
そう、釜山女高の校舎を借りてたのか、あるいは別な建物だったか、わかりませんが、そこに朝鮮戦争以降に出来た独逸(ドイツ)病院があったらしく、そこで僕は産まれたそうです。

 
>剣道道場は日本時代は「武徳殿」と言われていましたが
>韓国時代にも剣道場として使われたことがありますか?
 
近所に公園など子供が遊べる場所がまったくなかったもんで、道庁にはたまに遊びに行きました。剣道の稽古を外から覗き見した記憶があります。

>1979年6月の釜山税関の建物の解体をご覧になったのですね!

いや、解体する予定で、文化的価値のある貴重なものなので反対する学者がいるというような記事を新聞で読んだことがあります。
海雲台のあの景観の秀麗な冬柏ソムの入口に朝鮮ビーチホテルを建てるって話があったときも、反対の声が多かったものの、軍事政権の前では、そういった良識は無力でした。

>1968年に廃止になった路面電車に乗ったことはありますか?
 
特に国民学校に入る前の小さい頃、よく乗りました。
母と一緒に水晶洞、佐川洞まで、それから、花見に東莱温泉?金井山?(終点)まで乗ったことがあります。

思い起こせば、60年代頃の釜山は、ほぼ戦前の町並みのまんまではなかったかと思います。
大新洞、芙蓉洞、宝水洞、富平洞・・・ほとんどが瓦葺きの和式家屋で(因みに我が家は二世帯長屋の半分でした)、通り沿いの商店も戦前からのものが多かったです。
富平洞にあった洗濯屋は屋号までそのまんま「白洋舎」(ハングル表記)でした。

道路で覆い被せられる前の宝水川(水源は九徳山)の風景は、川の両側に柳がどこまでもずらっと並び、その木陰で朝鮮将棋や碁に興じるアヤジたち・・・日本のどっかの地方の町の風景でしたね。

1.  けい     7/28(木) 09:34:42 No.20110804163424-1 削除
113,235バイト

芙蓉亭さま 貴重なお話ありがとうございます。

釜山女子高校は朝鮮戦争の時 国連軍病院として使われ、学校は
土城洞の女子寮で行われたと聞いています。ドイツの病院が入った
かもしれませんね
朝鮮戦争当時の芙蓉洞付近の航空写真があります。ご自宅が
写っていませんか?

検察庁庁舎として使われるまでの間は剣道場として使われていた
のでしょう。空白の時間を実際に覗いた話はありがたいです。

電車は東莱の温泉場が終点です。桜の名所だったので花見を楽しむ
人たちが多かったようです。

寶水川の辺は大きな柳の木がゆらいで木陰が気持ちよかったという
話しを聞いています。私が最初に釜山訪問した時は道路になった
後なので当時の様子を推測するだけです。


2.  芙蓉亭     7/30(土) 03:41:34 No.20110804163424-2 削除
貴重な写真、ありがとうございます。
初め、少し戸惑ったんですが、道庁の道場を手掛かりに全体を把握することができました。道庁の左隣が富民国民学校(ぼくの母校)、写真の左にある広い敷地が釜山女高(国連軍病院)、そこから左へ200Mくらい?の所に釜山矯導所(刑務所)がありまして、大通りから囚人たちが廊下を歩いてる姿をよく見ました。左上が花郎国民学校。我が家は釜山女高から右へ200Mも離れてない所で、さすがピンポイントはできず、だいたいの範囲はわかりました。
寶水川が道路に覆われて、初めてそこに行ったときは、大ショックでした。
余談ですが、釜山大橋(影島タリ)の橋桁が開閉してた頃は、そのときのサイレンが我が家の方でも聞こえたので、その音が時刻の知らせでもありました。


3.  けい     7/30(土) 11:13:58 No.20110804163424-3 削除
釜山大橋(影島タリ)のサイレンが芙蓉洞まで聞こえるのは
当時は自動車など騒音が少なく静かだったからでしょう
生活感覚のある余談のほうが記録に残らない情報で面白いです。

釜山の明治の頃は牧島(影島)の砲台から大砲を撃って時刻を
知らせていました。大正になるとサイレンに替わり、戦争が
始まるとサイレンは空襲警報専門になり時刻には使われなく
なりました。
60-70年代の釜山の正午の合図はサイレンですか?


4.  芙蓉亭     7/30(土) 15:39:23 No.20110804163424-4 削除
>釜山大橋(影島タリ)のサイレンが芙蓉洞まで聞こえるのは
>当時は自動車など騒音が少なく静かだったからでしょう

なるほど。
 
影島大橋?釜山大橋?(70年代の正式名称はどっちだったんでしょ)といえば、自分の通ってた中学校が影島にあったので、よく歩いて渡ってました。影島も戦前の面影が色濃く残ってる街でしたね。船具屋やら、倉庫やら。因みに漁船は百%日本漁船の中古だったし。橋の両側のタモトには戦前の石畳がしっかり残っていて、それがチャガルチ市場までつながり、瓦葺き屋根の重厚な造りの商店が並び・・・まさに異空間でした。 

>60-70年代の釜山の正午の合図はサイレンですか?

サイレンはあくまで橋桁の開閉のためであり、開閉しなくなってからは、時刻知らせのサイレンなんてものはなかったように思います。60年代に開閉がなくなったはずですが、開閉シーンを小さいとき、見たかもわかりませんが、記憶にはありません。

ところで、60年代、日本のコロナにとって代わられるまで走ってた始発(シバル)タクシー(国産?)をご存知ですか。
軍用JEEPのような四角い車。毎年の夏、家族全員、それに乗って海雲台に行ってました。当時の海雲台って、海の家も少なく、避暑客も少なく、閑散としてたように思います。砂場近くに軍の部隊がある他に周辺にはほとんど何もない静かなところでした。 
帰りに初めて走る蒸気機関車に出くわし、その迫力とカッコよさに度肝を抜かれましたね。今思えば、釜山駅から海雲台まで汽車という手段もあったんですが、7人でたくさんの荷物、乗り換え・・・やっぱりタクシーですね。料金もそれほど高くなかったはずだし。 


5.  けい     8/2(火) 16:10:27 No.20110804163424-5 削除
120,923バイト

1980年に赤い「釜山大橋」が完成して埠頭道路開通、
それ以後は名前を譲って「影島大橋」になっています。
現在は薄い灰色になって目立たなくなっています。

始発(シバル)タクシーの名前は知りませんでした。
60年代の写真がありますが・・・これですか?
出典:写真で見る釜山50年(1995年発行)

60-70年代の海雲台は米軍基地と極東ホテル・ゴルフ場くらい
ですね、東海南部線はけっこう後まで蒸気機関車が運用されて
いたようです。


6.  芙蓉亭     8/4(木) 16:34:24 No.20110804163424-6 削除
>始発(シバル)タクシーの名前は知りませんでした。
>60年代の写真がありますが・・・これですか?

実は、ぼんやりした記憶しかなく、もっと四角くて、
安っぽい感じかなと思ってたんですが、意外と存在感ありますね。
シバル・タクシーのあとはコロナ(国内生産)の時代がずいぶん続いたはずですが、そのコロナが韓国から撤退し、フォード車に代わり、「コロナは力があってよかったよ」って話を運転手から聞いたことがあります。

釜山 
芙蓉亭 7/25(月) 14:34:17 No.20110726104649 返信 削除
はじめまして。
長年日本に住んでる釜山出身の韓国人ですが。今までネットで、戦前の釜山に関する資料を探してみたんですが、検索の仕方が下手なせいか、なかなかヒットしませんでした。
ところが、きょう、釜山の風景を検索したら、こんな素晴らしいサイトにヒットするとは!感激しております。

我が家は慶南道庁近くだったんですが、敷地内にあった瓦葺き屋根の尚武館(剣道道場)という建物が実に立派で、殊にその屋根の部分の繊細かつ整然たる様式美に子供ながら、いつも惚れ惚れと見とれていました。まだ残ってるんでしょうか。
それから、子供のぼくに一番衝撃的だった和式建物は、玩月洞(緑町)の遊廓でした。夏、仲間たちと一緒に松島海水浴場に向かって歩いて行く途中、初めて、その朱塗りの手摺りやら、それまで見たことのない、神秘的なムードの漂う二階建て?の異形な家並みに圧倒され、しばらく呆然とその家々を食い入るように眺めたものでした。自分が小4か小5くらいの頃だったから、おそらく1966か1967年だったと思います。1970年代までは、まだ少し、その建物が残っていたはずですが、さすが、今は全滅でしょう。

幼心に惜しいと思ったのは、あの素晴らしい釜山税関(建物)の解体です。交通の妨げになるとかで、当時の野蛮軍事政権下の道路工事に伴い、あっけなく破壊されました。
またお邪魔させて下さい。

1.  けい     7/26(火) 10:46:49 No.20110726104649-1 削除
芙蓉亭さま 
こんにちは はじめまして ご感想ありがとうございます。

道庁の近くの芙蓉洞にお住まいだったのでしょうか
道庁敷地内にあった瓦葺き屋根の尚武館(剣道道場)は
7-8年前に解体されました。現在は東亜大学の校舎が
建っています。

剣道道場は日本時代は「武徳殿」と言われていましたが
韓国時代にも剣道場として使われたことがありますか?
朝鮮戦争時代に臨時で国会として使われ、戦後は高等検察庁の
庁舎になったことしか分かりません。

白黒の写真でしか見たこと無いので玩月洞(緑町)の遊郭が
赤い手摺だったとは知りませんでした。
現在は残っていません。

1979年6月の釜山税関の建物の解体をご覧になったのですね!
1968年に廃止になった路面電車に乗ったことはありますか?
大廳路の路線はそれ以前に廃止になったようですが記録をまだ
見つけていないので分かりません。

記録が少ないので60-70年代の釜山の様子など教えていただける
と嬉しいです。


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