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Terryさんへの電子メール
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> 初めまして。 > 私は元日本基督教会釜山教会の後身になった光復教会出身のもので、いまイギリスに働いている陳永宗と申します。ここにはテリと呼ばれでいます。 > 先生がおアップロドして下さったさまざまの貴重な資料たちについて本当に感謝いています。そのなかで、もしか参考になるかも知らないと思ってこのように勇気を出てみます。ちなみに私の日本語があまりにぞずではないのを先に申します。 > > 1、教会の定式の名前は日本基督教会釜山教会です。おしゃる通り1904年2月 初めてから終戰までいろんな歴史を持っているこの教会のこのをよく調べて、知っているだと思っています。終戰まで41年間7人の牧師の先生たちが働きました。終戰の時に最後の牧師だった唐牛正先生が彼の明治大学院の神学部時代の同級生だった、同時に慶尙南道內務局學務課長 尹仁駒先生に礼拝堂と共に教会の財産権の全部を讓渡しました。1945年11月25日、大韓イエス教長老会「光復教会」と改稱して韓國の基督ヘ人の教会としてあらためにはじめました。残念ながらいま私にはその時の教会の写真を持っていませんですけど、光復教会が創立70周年を向かって youtubeでビデオを作ってそのなかに簡略な元釜山教会の歴史と先生たちの朝鮮人に対する愛情を説明してかけました。參考で、下のリンクを確認してくたさい。 > https://www.youtube.com/watch?v=A96ZzQnnPAw > > 2、大廳路(大庁路)の東洋拓殖株式会社の後ろにあった日本メソジスト教会も1913年4月から終戰まで7人の先生たちがいて、引き揚げ時に先の釜山教会のように礼拝堂と全部を同じ教団の大韓イエス教長老会の「釜山中央教会」に讓渡しました。そのあと、釜山中央教会は1970年に分離させて一方は沙下区下端洞に移駐して「釜山新中央(せズンアン)教会」と改稱して、それから2000年には「ホサな教会」再び改稱して洛東江河口むこ川の「鳴旨(ミョンジ)」のところに大きな新しい礼拝堂を建築して今まで続いています。 > 一方、元位置に残された釜山中央教会も信徒數の揄チと狭い礼拝堂の問題で1995年、南川洞(ナムチョンドン)の荒嶺山の麓に新しい礼拝堂を建築,移轉してここまで続いています。 > > 戰前に建築されたあと1950代もその姿をまだ守っていた礼拝堂の写真を持っています。 > > つまらない意見でも知らないけどちょっとだけでも力になってほしいです。 > ありがとうございます。
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